昭和55年04月30日 朝の御理解
御理解 第50節
「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。」
昨日は敬親会でございましたから、まぁ先だっての御大祭の模様をビデオで見らして頂きました。もう始めからあのう最後までですから、ちょうど御大祭を拝ませて頂いたように時間がかかる訳です。本当にもう私はもう三回目も見せて頂いたんですけれども、たびたび見ても聞いても感激です。ようもこれだけの事が出来る。最後のお説教を聞かして頂いて、自分が話しているとは思われない。もういちいち合点しながらもう感動一杯でそれこそ涙をこぼしながら見、又は聞き終わらせて頂きました。
皆さんもご承知のように、ちょうど御大祭の時がひと月でしたから、もう四十日あまり体がこんな状態でグズグズしとりますけども、御大祭の前日までが一番山でございました。食事を頂いていないし、前の日に少しお寿司を頂いておったというだけで、ちょうど約一時間お話を致しております。そのお話をま終始聞かして頂きながら思わして頂く事ですけども、今度の御大祭はもう言うならば、本当に私はノ-タッチであった。もう言うならば先生方任せであり、ご信者さん方任せであった。
今日の御理解を頂いて昨日の感動を思うて、まぁこういう事が昨日の感動であったんだなと思わして頂きました。ひとりでにものが出来るというのはこういう事ではなかろうかね。普通の春の御大祭だけではない、落成奉告祭というお礼のお祭りが一緒に合わせて、もう本当に素晴らしいお祭りを拝まして頂きましたがね。勿論先生方やらご信者さん方が一生懸命になられてあれが出来たんですけどもね。ひとりでにものが出来るというのは、こういう事を言うのだなと、今朝方から改めて思わして頂いております。
そこでまぁ私のまぁ過去まぁ三十年の信心を振り返ってみ、私の信心の歩みというものを皆さんが見てきて下さった。又は聞いておられてまぁ十分お分かりになるだろうとこう思う。私の生き方私の頂き方、あれがいわば常平生からの信心であり、これが根肥やしになっておったんだと言う事に、なるのじゃないでしょうか。してみると結局私が過去三十年間歩かして頂いた、信心を皆さんがね知っておるだけではなくて、そういう信心を皆さんもなさる事によってね。
どういう大変な事であろうが、ひとりでに物が出来る様なおかげともなって来る訳でございます。黙って受けて受けて受け抜く、いうならば成り行きを大切に尊ばしてもらう。なるほどそれで地が段々肥えて来る。心が段々豊かにしかも大きくなって行く。私は毎朝有り難いなと思うのは、ここに座らして頂いてこの硯箱が綺麗に硯が洗い上げてある事です。こりゃもう一日使いますと、この中が墨でもう真っ黒になってしまいます。それをきれいに透き通る様に綺麗に洗ってある。
当番の先生方がまぁする訳ですけれども、清々しいとか清めるとか清まるとかということを申しますがね、先ず自分の信心のこの清まりを願うという事。しかもその清まった心で、清まった心の状態をもっていかなければ、いやおらなければ、私はねひとりでに物が出来るような根肥やし間違いなく根肥やしになる事であっても、心がね日々清まる事に精心しておらなければね、それを本当に根肥やしとして神愛として、受ける事は出来まいと思う訳です。今日は皆さんそこん所を聞いて頂きたいです。
ただ根肥やしにする、黙って治める、成行きを大切にする、そういう生き方で確かに根肥やしになる、それが肥料になるとまぁ言うても来ました。また私もそう思っておりますけれども、そのもう一つ根本的なところに信心は日々の改まりが第一、信心とは本心の玉を磨くものぞやと、これが根本でなからなければならないという事ですね。でないとね、その心をいよいよ清まるという事になりませんとね。成行きを尊ぶでも大切にするでもね、本当の大切尊ぶそういう心の状態が開けてこないです不思議に。
心がいわば清まる事に又清まっておる時ならば、その受け方頂き方がもう間違いなく神愛だ。神様がこの様にしてお育て下さるんだ、と言う様な実感がね感じ頂けるんです。清まる事ねそれがやはり根本で、合楽で言われるね地の心、泥の心ね、どういう嫌な問題でも汚い問題であってもね、それを浄化出来れる、神愛と分からしてして貰える、いあわゆる浄化した受け方、それがこちらが清まる事に精進し清まっておらないとです、それを浄化する事には、いうならば神愛として受ける事が出来ないね。
とにかく黙って治めるという事を、合楽では言われますが黙って治め具合が違う。それこそ清々しい様な心で、言うならどんなに普通で言うならば嫌な問題であってもね、それが受けていけれるという事が私は、ひとりでに物が出来る様なものと仰る、心の状態というのはいわゆる心一つで総てを創ると言われる、その心というのはね清まる為にはね先ずね改まらなければ、先ず改まるという事はいうなら汚れを落とさなければ、そしてそれをまた磨かなければ、そしてその上にお尻がある。
どういうお尻があるかと言う事になる、成り行きを尊ぶ黙って治めるということなるね。それでいて私常平然の信心というのはそういう内容がなからなければならない。ひとりでに物が出来るような事にならないと言う風に思うんです。まぁ例えて言うとまぁ今度ばっかりはもう一ヵ月、そのうまぁ今も本当じゃないですから。四十日余りなら神様に対するご無礼。どうもせんなりひとりで物が出来るような、おかげだけだけは頂いておる、頂いたね。言うならばひとりでに物が出来たものを収穫した様なものであった。
だからその収穫の後がこれはまたね大変だと思わずに、またはそれを耕すこともまた根肥やしにする事も又改めてその思いを新たにして、言わば常平生の信心というのがなされなければならんというふうに今思うております。収穫したそしてあとすぐ種蒔いたじゃいかんね。ひとりでに物が出来るような、おかげを頂く為には収穫したその後を大切にしなければならない。という事とね根肥やし根肥やしというても、ただ無茶苦茶に黙って受けさえすれば、成り行きを尊びさえすればという事なんだけれども。
そのうもう一つ根本にです清まる事だが、改まる事だが、ひとつあっての成り行きを尊ぶ大切にするね、黙って治めるという事になるのです。今日は私共が心を大きく豊かにして肥やして行く事の前提になるもの、それは清まるという事。そしてひとりでに物が出来た、出来たなら出来たその後その後を、又大切にしなければならないと、いう事を聞いて頂きました。
どうぞ。